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日本航空123便墜落事故 12.Aug.2025

日本航空123便墜落事故は1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100)が群馬県多野郡上野村の高天原山山中ヘ墜落した航空事故である。
日航ジャンボ機墜落事故とも言われる。
520名の死者を出し、日本の民間航空史上最悪の事故であると共に、単独機としては死者数において史上最悪の航空事故となっている。
原因は、製造元のアメリカ・ボーイング社による機体尾部修理不良と設計上の欠陥であり、特に機体修理中に使用されたリベットの留め方が不適切だったことが明らかとなった。
本件事故やその後2000年代にJALグループが起こした安全上の不祥事がきっかけで国土交通省から事業改善命令が出され安全啓発センターが設置されるなど、航空安全および事故対策強化を求める動きを引き起こした。
現在でも本件事故は航空安全の重要な教訓とされている。
123便は東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行定期旅客便で、事故当日の18時12分に定刻より12分遅れて羽田を離陸した。
伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる頃の18時24分35.70秒において、約11tの前向き外力が作用し、機体後部の圧力隔壁が破損、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し油圧操縦システムを全喪失して操縦不能に陥り、迷走飛行の末に、18時56分23.4秒ごろ後向き約0.14Gの衝撃が加わって右側第3、第4エンジンの出力が異常な速さで低下し、18時56分28秒ごろ群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)に墜落した。
乗客乗員524名のうち死亡者数520名、生存者4名で、前述の通り民間航空史上最悪の航空事故であるとともに、2025年現時点で単独機の航空事故としては世界最多の死亡者数となっている(複数機が絡んだ事故を含めると、1977年3月のテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故(死者数583名)に次ぎ史上2番目の死者数となる)。
また本事故は2024年に羽田空港地上衝突事故が起きるまでは、日本航空としては最後の機体全損事故であった。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特に本件事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれる場合もある。
1987年(昭和62年)6月19日、運輸省航空事故調査委員会(以下、事故調)は事故調査報告書を公表した。
本件事故から7年前の1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こした「しりもち事故」後の、ボーイングによる圧力隔壁の不適切な修理による破損が事故原因と推定されている。
事故原因を巡っては様々な疑問点や異説が提起されていたため、事故調の後身に当たる運輸安全委員会(JTSB)は報告書公表より24年後の2011年(平成23年)7月29日、事故調査報告書解説書を公表した。
123便に使用されたボーイング747SR-46(機体記号:JA8119、製造番号:20783)は、1974年(昭和49年)1月30日に製造され、1985年(昭和60年)8月19日付登録抹消された。
総飛行時間は25,030時間18分で、総飛行回数は18,835回であった。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動