1985年8月12日、日本航空123便が群馬県上野村の御巣鷹山に墜落し、520名の犠牲者を出した「日航ジャンボ機墜落事故」から33年がたつ。
お盆時期の夕方だったためジャンボは満員で、単独の航空機事故では犠牲者が世界最多となる、非常に痛ましい事故だった。
墜落したJAL123便(伊丹行)は、8月12日18時12分に羽田空港を離陸した。
12分後の18時24分、異常事態が発生する。
突然の衝撃音とともに、123便の垂直尾翼が破壊される。
その時、ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムが損傷され、油圧関連の操縦が不可能になってしまう。
123便は、18時28分頃に緊急事態を表す「スコーク7700」を発信し、18時59分以降レーダーから消失する。
つまり、飛行機がどこにいるのか(どこに墜落したのか)が分からなくなる。
そのため、墜落現場が判明したのは、なんと翌日8月13日午前4時30分過ぎ(航空自衛隊救難隊による)であり、救助活動が行われたのは、墜落から14時間後の午前8時半だった。
生存者の証言によれば、墜落直後には相当数の乗客が生存していた可能性があった。
救出された、当時12歳の少女の証言によると墜落した直後は周囲からがんばれという励ましや、早く助けに来ないのかなどという話し声が聞こえていたが、次第に静かになっていったと語っている。
そのため、救出が早ければもっと多くの命を救えたのではないかという意見がある。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産