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宮崎勤・幼女連続誘拐殺人事件 22.Aug.2025

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件とは、1988年(昭和63年)から翌1989年(平成元年)日本の関東地方(埼玉県・東京都)で相次いで発生した4件の誘拐殺人事件。
警察庁により、広域重要事件117号に指定された。
1988年8月 – 1988年12月にかけ、埼玉県西部の入間川流域(入間市・飯能市・川越市)でA(事件当時4歳)、B(同7歳〈小学1年生〉)、C(同4歳)の女児3人が相次いで行方不明になり、Cは行方不明になってから数日後に山中で他殺体となって発見された。
その後、1989年2月にはAの遺族に遺骨が送りつけられ、同年6月には東京都江東区の女児D(同5歳)が行方不明となり、埼玉県飯能市でバラバラ死体となって発見された。
同年8月に一連の事件の犯人である宮﨑勤がD事件の被疑者として警視庁に逮捕され、彼の自供により行方不明のままだったBも遺体で発見された。
宮崎は2006年(平成18年)2月2日に死刑判決が確定、2008年(平成20年)6月17日に東京拘置所で死刑を執行されている。
被害者の遺骨を遺族に送りつける、犯行声明を新聞社に送りつけるなど、不可解な行動を犯人がとったことで、マスメディアによる報道が過熱。
犯人逮捕後も、犯人の趣味嗜好などが大きく取り上げられ、「おたく」という呼称・言葉が広く周知されるきっかけとなった。
当時としては異例の2度の正式な精神鑑定が行われた事件でもある。
犯人の名前から、「宮崎事件」「宮崎勤事件」「M君事件」などと呼ばれる。犯人だけでなく、被害者の名前も実名で報道された事件であるが、本項では被害者を事件発生順にA・B・C・Dと表記する。
東京都あきる野市小和田(旧:西多摩郡五日市町小和田)にある「和み広場」。
ここは宮崎勤の生家(五日市町小和田181番地)と彼の父親が経営していた「新五日市社」社屋の跡地であり、A事件・D事件ではそれぞれ被害女児の遺体がここで焼却・切断された。
A事件
1988年8月22日、埼玉県入間市春日町で幼稚園児の女児A(当時4歳)が行方不明になり、両親が「娘が帰ってこない」と埼玉県警察に通報した。
Aは15時20分ごろ、近所に住む同じ幼稚園の友人宅に遊びに行くと言い残して外出したが、実際には友人宅には寄っていなかった。
同日15時30分ごろにはAが自宅近くで、中年男性について行くような形で入間川の方へ向かって歩いている姿を、男児2人が目撃している。
またAと同じ団地に住んでいた主婦2人も同じころ、Aが自宅近くの市道を西から歩いてきて、自宅のある団地に隣接する市立黒須小学校校庭の角を左折し、見知らぬ中年の男(見た目は30 – 40歳)の数メートル後をついていくように、団地と小学校の間の道を入間川方向へ歩いて行く姿を目撃していた。
翌23日以降、所轄の狭山警察署や入間市消防本部(現:埼玉西部消防組合)、地元自治会員らが徹夜で付近の入間川・霞川や用水路、寺社などで大規模な捜索を行い、前述の男児2人の証言から、県警は誘拐事件も視野に捜査を進めたが、Aは発見されなかった。
前述の目撃証言から、Aは友人宅に向かったはずが何らかの理由で引き返し、自宅前を通り過ぎていったことになるため、広範囲の捜索でも手掛かりが得られなかったこと、また慎重な性格であるAが傘も持たず、一人で川など危険な場所に行くことは考えられないことから、狭山署はAが友人宅へ向かう途中で誰かに声をかけられた可能性を強めて捜査した。
実際にはAは犯人である宮﨑勤によって誘拐された直後に殺害されていた。
宮崎は殺害後しばらく経ち、死後硬直で固くなったAの遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。
B事件
その後、同年10月3日に同県飯能市下赤工で市立原市場小学校1年生の女児B(当時7歳)が行方不明になった。
Bは同日13時50分ごろに集団下校し、途中で欠席した同級生宅に一人で寄って学校からの連絡帳を届けた後、自宅玄関先にランドセルを置いたまま行方不明になった。
現場は飯能市街地から約8 km離れた名栗川(入間川の上流部)・県道飯能下名栗線沿線の山間地である。
宮﨑はBを誘拐した直後に殺害し、その直後にわいせつ行為をした。
Bの家族はBが失踪した3日夜に捜索願を出し、これを受けた埼玉県警や所轄の飯能警察署、飯能消防署は4日朝から、B宅近くの入間川など周辺一帯で大規模な捜索を行ったが、手掛かりは得られなかった。
失踪現場はA事件の失踪現場と同じ入間川沿い(A事件の現場から約12 km上流)にあり、また両事件には「被害女児がおかっぱ頭」「失踪時間帯は月曜日の日中」という共通点が見られたことから、埼玉県警はこの時点で両事件の関連を調べていた。
事件を受けて原市場小学校は10月はじめに予定していた運動会を延期し、11月になって開いたが、Bの家族に配慮して応援合戦やアトラクションを自粛していた。
C事件
同年12月9日には同県川越市古谷上で、幼稚園児の女児C(当時4歳)が行方不明になった。
Cは事件当日の14時30分ごろに母親とともに幼稚園から帰宅した後、自宅のある棟から約100 m離れた別棟の友人宅へ遊びに行った。
その後、既に暗くなっていた16時30分ごろにもう一人の友達と一緒にこの園児宅を出たが、自宅まで約20 mのところで友人と別れた。
ここまでは団地内の主婦が目撃していたが、そこから約20 m先の自宅のある棟との間で行方不明になった。
C宅のあった団地は川越線の南古谷駅から北東約2 kmに位置するマンション団地であり、35棟に約1450世帯が入居していた。
団地から東へ約500 m離れたところには入間川が流れていたが、Cの母親は娘に対し、入間川には行ってはいけないと言っていた。
Cの通園していた幼稚園も入間川近くにあったことから、普段から水の事故がないよう保護者たちに呼び掛けていたほか、事件発生時点では入間川沿いで女児行方不明事件が2件(A・Bの両事件)相次いでいたため、園児たちに注意を促していたところだった。
また団地の住民らも、11月中旬に小学1年生の女児が見知らぬ男に誘拐されそうになった事件が発生していたこともあって、警戒を強めていた矢先の事件だった。
Cの失踪を受け、埼玉県警は川越警察署員や機動隊員ら約70人を動員、地元自治会の住民ら約150人の応援を得て付近一帯を捜索した。
3事件の現場はいずれも埼玉県西部であり、かつ半径10 km圏内の入間川沿いであること、失踪した時間が夕方であることなど共通点が多かったため、埼玉県警は3件連続の女児連れ去り事件の可能性があるとみて捜査した。
また県警は同月10日、県警本部に「幼女連続行方不明事案総合対策本部」(本部長・石瀬博県警本部長)を、県西部地域の11署にも対策本部をそれぞれ設置した。
前者の総合対策本部の設置は、狭山(A事件)・飯能(B事件)・川越(C事件)の3署の捜査を強力に進める一方、同種事件の発生を未然に防ぐため行われた異例の措置だった。
同事件でも、宮﨑は誘拐直後にCを殺害していた。
同月13日から14日にかけ、同県入間郡名栗村上名栗新田1289-2の「県立名栗少年自然の家」の職員が駐車場付近の山林(遺体発見現場から県道青梅秩父線を隔てて約350 m東の横瀬川近く)で子供用の衣服が捨てられているのを発見、15日朝になって飯能署に連絡した。
これを受け、同署員が自然の家に近い杉林でCの他殺体を発見した。
同事件を捜査していた県警捜査一課と飯能・川越の両警察署は誘拐殺人・死体遺棄事件と断定、県警刑事部長・友川清中を本部長とする「Cちゃん誘拐・殺人事件合同捜査本部」を設置した。
またそれまでの3件について同一犯による連続誘拐事件との見方を強め、3事件の失踪現場の徹底した捜索・検証も行った。
同月20日、C宅に「C」「かぜ」「せき」「のど」「楽」「死」とそれぞれ行を改めて新聞記事の文字を拡大コピーして切り貼りした葉書が届いていた。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産