長崎大水害は(昭和57)1982年7月23日に発生しました。
ちょうど今日で40年が過ぎました。
この日は南部に停滞した梅雨前線により、夕方から集中豪雨に遭いました。
翌日の24日までに総雨量は572㎜を記録。
長与町役場では1時間で187㎜の記録を出しました。
これは国内の観測史上で最大の記録で、2022年現在でも超えられていません。
①7月20日までに大雨があり、すでに地盤が緩んでいた。
②がけ崩れ、土石流、河川の氾濫が同時に起こった。
③当日は5回目の警報で、連日続く警報に慣れた市民の警戒心は薄くなっていた。
④道路の寸断によりライフラインが途切れ、電話は繋がらず、テレビからも情報を得られなかった。
⑤情報の伝達不足。消防車やパトカーが洪水により動けなかったので、避難勧告が市民に伝わらなかった。
電話なども繋がらず、何も知らないまま自宅などにいたなんて、とても怖いですね。
当日、避難をしていたのは全体の27.3%ほどでした。
警報は5回目でしたが、それまで大きな被害がなかったために、特別な警戒をしていなかったのでしょう。
何度も警報を聞いていたので、すっかり慣れてしまったんですね。
前も大丈夫だったからといって、次も何も起こらないとは限りません。
警報には毎回注意をすることが大切です。
また、警報も深刻さを表す特別な発信をしておらず、情報を伝える側、そして受け取る側にも問題がありました。
このため被害は拡大していったのです。
死者・行方不明299名(87.6%は土砂災害による被害)
・住宅被害39,755戸
・がけ崩れ4,306ヶ所
・地すべり151ヶ所
長崎大水害は、水害ではなく土砂災害で犠牲になった人が多いことは知っていましたか?
死者・行方不明者が299名もおり、その8割は土砂災害で亡くなっています。情報が伝わらず、斜面地の多い長崎では、家にいたまま被害を受けた人が多かったのです。
河川の氾濫により死亡したのは30数名で、この中の40%が移動中の車の中で死亡しました。
私も当時、長崎市に住んでおりましたので、帰宅途中に西町踏切付近で200mくらい車に乗ったまま流されました。
幸い少し高いところに打ち上げられたので、再度エンジンをかけ途中の家具屋の駐車場に車を置き、歩いて帰宅しました。
途中、崖崩れが発生し、長崎バスが川に転落してました。
河川の氾濫により死亡したのは30数名で、この中の40%が移動中の車の中でした。これは帰宅する時間帯と重なっていたことから、強引に家に帰ろうとしていたのではないかと考えられます。
河川の氾濫により、眼鏡橋は一部流出するなど国の重要文化財も被災しました。
中島川の周辺にある11つの橋の内、6つの橋に被害が及んだのです。
中島川にある写真の石碑は、中国で制作された水害復興記念碑です。
治水と日中の友好を表しています。
長崎市内には、他にも到達した最高水位を表している場所があります。
思案橋電停の近くの歩道は157センチ、浜の町アーケードの中の観光通りの交差点の鉄柱には173センチ、中央橋交差点では氾濫した水位の高さは150センチ以上。
どのくらいの水位があったのか、実際にその場所に立ってみると今でも恐ろしく感じます。市内の中心部にあるので、目印とあなたの身長と比べてみてくださいね。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産