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長崎原爆 9.Aug.2024

1945年8月9日午前11時2分。
原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空から第二号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎に投下した。
彼の手記によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。
スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。
すでに燃料は沖縄基地までようやくという状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。
示された照準点への爆弾投下まであと30秒、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。
あと25秒。
そのとき、はからずも爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。
そこは、三菱グランド (浜口町) から三菱製鋼所、同兵器製作所 (茂里町) にかけての中間地帯だった。爆弾の投下は目視爆撃で行え、ということが示された重要命令だった。
そこで、ここが急遽投弾目標となった。
爆発は、目標地帯からおよそ5~600メートル北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。(通称爆心地公園の上空)
爆発時の諸状況は、次の通りであった。
爆発点の高度についてはいくつかの推定値があるが、現時点では503メートル~±10メートルが信頼度の高い数値と考えられている。
ちなみに、1945年10月、木村一治 (もとはる)、田島英三理化学研究所員が、井樋ノ口交番所の庇の影、浦上天主堂の石碑の影、長崎医科大学附属病院の焼け跡で見つけた影の三方の影から爆心を測定し、そのときは爆心点高度を490メートル~±25メートルとしていた。
爆発と同時に空中の一点に摂氏数千万度ともいわれる火球が発生、体積が急速に膨張した。
爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間にその直径は約30メートル、温度は摂氏およそ30万度になり、さらに火球は百分の一秒から一秒の間に直径100~280メートルに達した。
火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間にわたって外部に強い影響を与えたと考えられている。
特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの間においての赤外線であった。
一説では地上物質の表面温度は、原爆の直下では恐らく3,000~4,000度にも達したと推定されている原爆投下機の機長・スウィーニーは 「垂直の雲は驚異的なスピードで上昇を続けており、その色はつねに変化していた」 「上昇してきた雲が、7,500メートルの高度で白くきのこ状に膨らみ、さらに加速しながら上へ噴出を続け、9,000メートルにいた我々を追い越して、少なくとも14,000メートルにまで達した」とその手記に記している。
このきのこ雲は、近郊はもちろん遠く県外でも望見されたが、意外にも、爆心地に比較的に近い距離に居た者には、きのこ雲は見えなかったと証言する者が多い。
立ち昇ったきのこ雲の雲頂はやがて崩れ、次第に東方へ流れていった。
雲の移動速度は時速約12キロメートルと推定されている。
民家は跡形もなく破壊され、コンクリートで造られた頑丈な建物も崩壊しました。
原爆は大量の放射線も放出しました。
熱線や爆風の被害を免れて生き残った人も、白血病やがんなど放射線による 「原爆症」 で次々と命を落としました。
人的被害は広島に続いて未曽有の規模となり、長崎市の当時の推定人口約24万人に対し、45年末までに約7万4000人が亡くなりました。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産