ほとんどの人間は、実のところ自由など求めていない。
なぜなら自由には、責任が伴うからである。
みんな責任を負うことを、恐れているのです。
昨今の教育では、子どもに自由を与えようと、色々なことを考えているが、その自由について、教育業界の人たちは、本質的議論をしているようには思えない。
自由がどういうものであるのか、そして、人間にとって自由とは何か。
何をもって自由だというのか。
このような観点から、自由を議論し、どの段階までの自由を子どもに与えていくのか、そして、その与えた自由から何を子どもたちに学んでもらうのか、ここを考えているようには思えない。
自由ほど、あやふやな言葉はない。
そして、自由ほど難しい言葉はない。
自己責任の上に、自分の自由が了解されなければならないのに、その議論も認識もなく、ただ、管理の裏返しとして、自由を良いものだと思っている。
兎に角、子どもを自由にすれば、それだけで閉塞感がなくなっていくかのように思っている。
社会は、コスモス(秩序)とカオス(混沌)のせめぎ合いの中で成立している。
自由善玉論だけでは何も解決しない。
自由には、コスモス(秩序)という土俵が必要なのです。
そのことを私たちは、忘れるべきではない。
特に、将来の社会構成メンバーを育てるフィールドでは。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産