宝永地震 (ほうえいじしん) は、江戸時代の宝永4年10月4日 (1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖 (北緯33.2度、東経135.9度 ) を震源域として発生した巨大地震。
南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている。
宝永の大地震 (ほうえいのおおじしん) ・ 宝永大地震 (ほうえいおおじしん) ・ 亥の大変 (いのたいへん) とも呼ばれる。
地震の49日後に起きた富士山の宝永大噴火は亥の砂降り (いのすなふり) と呼ばれる。
南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、嘉永7年(1854年) に連発した安政東海地震および安政南海地震が知られている。
また、宝永地震の4年前 (1703年) には元号を 「宝永」 へと改元するに至らしめた相模トラフ巨大地震の一つである元禄地震が発生している。
慶長9年 (1605年) の慶長地震もかつては宝永地震のように東海道・南海道に亘り、震源域がほぼ宝永地震に匹敵する津波地震と考えられていた。
しかし、これを南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点があり、南海トラフ沿いの地震ではないとする見解も出されている。
実際、慶長地震の震源域が南海トラフ全域に亘るものならば、それは僅か100年余の短期間に超巨大地震を起こすに足るエネルギーが蓄積したということであり、将来の超巨大地震の見積もりも修正を余儀なくされる。
仮に慶長地震が伊豆小笠原海溝沿いが震源域ならば、地震動が弱い点、歪み蓄積時間の問題は氷解する。
また、安政地震までの再来間隔147年は従来の定説では、1361年正平地震以降の南海トラフ巨大地震の平均再来間隔117年より長いと考えられてきたが、安政地震については 「宝永地震の後始末地震」 だった可能性も考えられ、この再来間隔147年は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある。
本地震について記され現在まで残された古文書は、幕末に発生した安政地震に比して量・質とも遥かに及ばず、しかも安政地震後に当時の人々が過去を振り返って記述したものも少なくなく、地震当時に記録された史料は少ない。
伊豆の下田では家数925軒の内、857軒が津波で流失し、55軒が半潰れとなった。
下田では元禄津波の被害も受けているが、この時は492軒の流失であった ( 『下田年中行事』 )。
下田市の口碑に 「七軒町」 は昔津波の時に家が七軒残ったためそう呼ばれるようになったとあり、元禄12年 (1699年) の 『下田町水帳』 にはこの町名は見えず、元禄津波より宝永津波の方が被害が大きいことから、これは宝永津波を指すと考えられている。
浜名湖が太平洋とつながる今切は津波によって1里 (約3.9 km) もの大口を開け、遠州灘と湖とを隔てる半島は切り離され島となり、半島にあった新居関・新居宿と共に流失し不通となり、浜名湖北岸を迂回する本坂通が大いに賑わったという。
その後、宿場町は移転を余儀なくされ、宝永5年正月 (1708年) から工事が始まり、3月から4月に移転が完了した。
この結果、新居-舞阪間の渡船路は一里半 (約5.9 km) となった。
白須賀も残らず震潰れた後津波で流失したため、地震以後白須賀宿は汐見坂を登った高台へ移転し、元の宿場町は元町と呼ばれるようになった ( 『白須賀町誌』 ) 。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産