11月1日は寿司の日。1961年11月に全国すし商環衛連が「実りの秋・収穫の秋・米への感謝」の日として11月1日を寿司の日としたのが始まりでした。
その由来は以外にも800年以上も昔の奈良県にありました。
義経千本桜(歌舞伎18番狂言)の中に『鮓屋の段』と言う作品があります。
劇中の主役である「鮓屋の弥助」が都落ちした平維盛という平家の武将でした。
平維盛は平清盛の孫にあたり平家の総大将でした。
討伐から逃れるため大和国(奈良県吉野郡下市村)で鮓屋を生業にしていた旧臣・宅田弥左エ門を頼ります。
下市村を流れる吉野川で獲られた鮎を使って鮓職人として身を隠しながら働くうちに弥左エ門の娘お里と恋仲に。
それから程なくして養子となり、実の名を捨てて改名した日が11月1日とされているのです。
この日以降平維盛は「鮨屋の弥助」と名乗るようになったそうです。
この吉野地方で作られる鮎の寿司は、平安時代の50巻から成る法令集「延喜式」にも出ているほど歴史のあるものです。
その作り方は大昔のチーズと言われる発酵技術食品でした。
弥左衛門が郷里大和市に帰り、近くを流れる吉野川の鮎をとり、塩をきかせ、おにぎりの上に乗せ、釣瓶の形をした桶に何個か並べて重ね石の重石をかけて2~3日してご飯が自然発酵した、いわゆる「なれすし」でした。
これが桶の形から釣瓶鮨(つるべずし)と名づけられたのです。
この弥助の鮓屋、なんと今も残っているんです!
奈良県の下市村にある「つるべすし弥助」は現存する鮨店では、最古のお店です。
代々、宅田弥助を850年にわたって48代もの間襲名しているそうです。
つるべすし弥助は、慶長年間に仙洞御所(上皇)に鮎鮨を調進した鮨屋でもあります。
創業800有余年、吉川英治や谷崎潤一郎などの文人のほか、美空ひばりなどの歌手も訪れた老舗です。
本来のなれすしは数年間発酵させるので、飯はどろどろに溶けて食べられなくなりますが、弥助のなれすしは発酵に1ヶ月程度で、飯も食べられる「なまなれ(生成)」です。
しかし、こうした製法も採算が合わず、数十年前にやめてしまったということです(悲)。
全国の寿司屋の看板に、「弥助」や「よしの」の名が多いのも、起源はこのお店に由来したものだ言います。
寿司の日の起源を調べていたら予想以上に古い時代の話だったことがわかりました。
寿司に歴史あり! ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産