1985年8月12日、当日のJAL123便はほぼ定刻通りの18:04に羽田空港を出発、12分に離陸。
予定通りの航路を飛行していた。
しかし離陸して約12分後、航空機内の気圧を維持する後部圧力隔壁が破損※。
この際の衝撃で垂直尾翼を失うと同時に、油圧管が全て破損した事で油圧を喪失。
油圧系、すなわち操縦桿を用いた機体の制御が完全に不可能な状態へ陥った。
この事態にパイロットは緊急事態を宣言(スコーク77:トアンスポンダの状態番号を「非常事態」を示す7700に設定)すると同時に、即座に羽田へ戻る事を管制塔へ要請。
また通信を聴いた米軍横田基地も最優先で123便を受け入れる準備を整えた。
パイロットはエンジンの出力調整などの限られた手法を用いて必死に機体を制御して羽田へ向かおうとしたが、尾翼を失ったことによって安定性が失われ、ダッチロールとフゴイド運動が激しくなりつつあった機体は徐々にコントロールを失い、群馬県の山岳地帯へ向かい始める。
なおも諦めずに制御を続けたが、異常発生の約30分後に右主翼が地面へ接触し(立木に激突したという説もある)、この際の衝撃で機体後部が脱落して先に落下。
この脱落した後部は尾根に沿って滑落、衝撃が少なく火災に巻き込まれることはなかった。
これが奇跡的に生存者を生み出す要因となる。
しかし機体の分解が始まり、完全にコントロールを失った機体を最早立て直す事は出来ず、18:56、群馬県と長野県の県境の御巣鷹の尾根 (御巣鷹山ではなく高天原山(たかまがはらやま)山系に位置する尾根) に引っくり返るような形で墜落。
機体は跡形もないほどに破壊され、爆発炎上した。
墜落直前、上昇を試みてエンジン出力を上げていた状態で地面に衝突したため、墜落時の速度はおよそ350kt(時速650~700km/h)、その衝撃は数百Gと推定される。
後に発見されたCVRには異常発生から墜落の直前の音声までが鮮明に記録されており、コクピット内でクルー達が舵の効かなくなった機体を必死に持ち直そうとする様子や、機長が他のクルーを励ます様子、また客席内の音声からは異常事態の中でも冷静を保ち続けたCA達の様子を伺い知ることができる。
しかし、最後に記録された音声は墜落時刻の約10秒前、GPWSの警告音声が流れる中に記録された、操縦士(機長と思われる)の「ああ、だめだ!」という断末魔の悲鳴であった。
不運にも乗り合わせていた歌手の坂本九さんは、飛行機に乗る前に行ったラジオの公開収録で、当初予定になかった歌を歌った。
番組では坂本さんが羽田空港に向かう直前に収録された。
それまでメディアでは披露したことのない「心の瞳」というこの曲は坂本さんが最後に残した歌声となったが、その後日本中に広がり、悲しみに暮れる家族たちを救うことになる。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産