日本の降伏とは、通常、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の日本による、連合国(実質的にはアメリカ合衆国)のポツダム宣言受諾(1945年8月10日)から、玉音放送及び日本軍の戦闘停止(8月15日)、降伏文書署名(9月2日)に至るまでの過程を指す。
以下、日本及びその各占領地における経過を説明する。
ポツダム宣言受諾までの経緯
ポツダム会談の様子。写真には、クレメント・アトリー、アーネスト・ベヴィン、ヴャチェスラフ・モロトフ、ヨシフ・スターリン、ウィリアム・リーヒ、ジェームズ・F・バーンズ及びハリー・S・トルーマンを含む
1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いでサイパン島が陥落すると、岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。
これに対し東條は岸に「ならば辞職せよ」と迫った。
ところが、岸は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。
しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた。
1944年(昭和19年)以降の連合国軍の反攻による日本本土空襲は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。
東條内閣の後継となった小磯内閣は、本土決戦を準備しつつも、和平工作を秘密裏に模索した。
元陸相宇垣一成を大陸に派遣し、中華民国重慶国民政府との和平交渉を打診した。
そしてサイパンが陥落し、本土への連合国軍による空襲が本格化した1945年(昭和20年)3月には、南京国民政府高官でありながら、既に重慶政府と通じていることが知られていた繆斌を日本に招き、和平の仲介を依頼した。
ところが、重光葵外相が彼を信用せず、小磯国昭首相と対立し、これも閣内不一致で総辞職となった。
この間の1945年2月、近衛文麿元首相を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すれば「ソビエト連邦軍による占領及び『日本の赤化』を招く」という危険性を訴えた上で、戦争の終結を求める「近衛上奏文」を昭和天皇に献言した。
ところが、天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、吉田茂・岩淵辰雄・殖田俊吉ら、いわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕された。
こうして軍・政・官は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を、更に特攻隊まで編成して、無謀な戦闘を継続させた。
1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣の東郷茂徳外相は、日ソ中立条約が翌年4月には期限が切れても、それまでは有効なはずであったことから、ソビエト連邦を仲介役として和平交渉を行おうとした。
東郷個人はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、連合国との和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が日ソ中立条約の終了時、もしくはそれ以前の赤軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいたため、ソ連が日本と連合国との和平を仲介すると言えば、軍部もこれを拒めないであろうという事情、また逆にソ連との交渉が破綻すれば、日本が外交的に孤立していることが明らかとなり、大本営も実質上の降伏となる条件を受け入れざるをえないであろうという打算があったとされている。
かつて東郷自身、駐ソ大使としてモスクワでノモンハン事件を処理し、停戦と不可侵条約を実現させたという成功体験も背景にあったとされる。
翌5月、最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸相・海相・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)において東郷は、ソ連の参戦防止及び中立を確約させるための外交交渉を行なうという合意を得た。
当初、これには戦争終結も目的として含まれていて、ソ連による仲介の代償として南樺太と千島列島の北半分、さらに満州の鉄道網を引き渡すことまで決めていた。
しかし、阿南惟幾陸相が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」と反対したため、上記2項目のみを目的とすることとなった。
東郷は、かつての上司であった広田弘毅元首相をヤコフ・マリク駐日ソ連大使とソ連大使館(当時強羅ホテルに疎開中)などで会談させたが、戦争終結のための具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言しなかったため、何ら成果はなかった。
その上、6月6日、最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されたため、日本側からの早期の戦争終結は、少なくとも表面上は全く不可能となった。
にもかかわらず、矛盾する事に木戸幸一内相と東郷外相、及び米内光政海相は、第二次世界大戦の際限ない長期化を憂慮して、ソ連による和平の斡旋へと動き出した。
木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇は、これに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を速やかに行うよう政府首脳に要請した。
しかし、東郷による広田・マリク会談は、それまでと同様、何ら進展しなかった。
ただし広田は、1932年(昭和7年)のリットン報告書のことを考えれば遅きに失した感はあるが、マリクとの最後の会談で、和平斡旋の条件として満州国を中立化することをソ連に提案している。
しかし、マリクは「政府上層部で真剣に考慮されるだろう」と回答しただけであった[7]。7月7日、これを伝え聞いた天皇は、東郷に「親書を持った特使を派遣してはどうか」と述べた[8]。そこで東郷は近衛に特使を依頼し、7月12日、近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省は、モスクワの駐ソ日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼を外務人民委員部に伝えることとなった。
しかしながら、日本の思惑とは裏腹に、既にスターリンは1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談において、ヨーロッパでの戦勝の日から3ヶ月以内に対日宣戦することで英米と秘密裏に合意しており、それとは矛盾する日本政府からの中立の要請や、戦争の停戦講和の依頼など受けるつもりはもとよりなかった。
5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスにある在外公館の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐から「シベリア鉄道におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていたが、これらの決定的に重要な情報は全て、軍部と外務省の間では不都合であったため真剣に共有されなかったか、重要性に気付かれないまま捨て置かれた。
1945年7月、ソ連は、ベルリン郊外のポツダムにおいてポツダム会談を主催し、イギリスとアメリカ合衆国、中華民国の首脳会談によるポツダム宣言に同意する。
その際、ソ連への近衛による和平工作について、米英と協議し、ソ連は対日宣戦布告まで日本政府の照会を放置することとした。
他方、日本政府は、なおもソ連による和平仲介に期待し続けた。
これを受けた東郷は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。
鈴木貫太郎首相は記者会見で7月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」と述べ、本土決戦に備えた。
しかし、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8月9日未明に日ソ中立条約を結んでいたソ連が突然条約を破棄し対日参戦、同日午前11時に長崎市への原子爆弾投下と、絶望的状況に陥った。
原爆とソ連参戦のどちらが決め手だったのか、原爆投下にソ連への牽制目的があったのかなどは論争になっており、結論が出ていないが、戦後日本ではマルクス主義史学の影響力が強かったこともありソ連参戦説が主流とされる。
いずれにせよ、日本にはポツダム宣言の受諾による降伏を決断した。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産