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広島原爆 6.Aug.2024

1945年8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。
この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。
一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。
古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」 と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。
1945年8月6日午前8時15分。
人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下されました。
原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。
火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。
原爆投下後に様々な機関が調査を行っていますが、原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていません。
本市では、放射線による急性障害が一応おさまった1945年12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計しています。
8月6日原爆投下当時、広島市には居住者、軍人、通勤や建物疎開作業への動員等により周辺町村から入市した人を含め約35万人の人がいたと考えられています。
また、日本人だけでなく、米国生まれの日系米国人や、ドイツ人神父、東南アジアからの留学生、そして、当時日本の植民地だった朝鮮と台湾、さらには中国大陸からの人々、そして米兵捕虜など、様々な国籍の人がおり、こうした方々もいやおうなく原爆の惨禍に巻き込まれました。
爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が亡くなられました。
それよりも爆心地に近い地域では80~100%が亡くなられたと推定されています。
また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほど、その後の死亡率が高かったようです。☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産