その時―
前夜から連続する警報・・・・・・その中で、9日朝は、快晴無風であけた。
軍需工場の多い浦上に、戦闘帽、巻脚はん、防空ずきんを肩にした人たち、女子挺身隊、動員学徒の群れが汽車、電車に鈴なりとなって続々と終結し、刻一刻、緊迫感が渦巻いてゆく。
空襲警報発令!
多くの市民は、これを「定期便」と呼び、また「時報」とささやき合っていた。
やがて、警報が解除となり、いったん付近の防空壕などに退避していた工場従業員が職場に戻り、家庭の主婦たちも昼食準備に取りかかっていたところー
突如、ラジオが、“B29,島原半島上空を北進中”を伝え、市民の中には、飛行機の爆音を耳にし、東方上空に「ギラギラ光るB29」、浮遊する落下傘を眺めているものもあった。
香焼島(爆心地から南約10キロ)に駐留する高射砲隊は、眼鏡の中にB29の機影を捉えて追跡し、金比羅山(爆心地から南東約1.7キロ)高射砲隊もまたいっせいに砲身を向けた。
だが、90式測高機が測定した高度は、9500~10000メートル。
射程圏外。
やむなく「戦闘態勢乙」・・・・・・なかには、浮遊する落下傘を目標にして射撃訓練を行う分隊もあったという。
兵員は、鉄帽をはずし、上着を脱ぎ、上半身裸の者も多かった。
午前11時2分!!
異様な閃光が走り、すさまじい爆風、爆風が大気を裂いて来襲。
山野にどよめくごう音、地軸をゆるがす衝撃波、熱線が照射し、火事嵐が荒れ狂った。 昭和20年8月9日午前11時2分。
原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空から第二号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎に投下した。
彼の手記によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。 スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。
すでに燃料は沖縄基地までようやくという状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。
示された照準点への爆弾投下まであと30秒、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。
あと25秒。そのとき、はからずも爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。
そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)にかけての中間地帯だった。
爆弾の投下は目視爆撃で行えということが示された重要命令だった。
そこで、ここが急遽投弾目標となった。
爆発は、目標地帯からおよそ5~600メートル北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。(通称爆心地公園の上空)
爆発時の諸状況は、次の通りであった。
爆発点の高度についてはいくつかの推定値があるが、現時点では503メートル~±10メートルが信頼度の高い数値と考えられている。
ちなみに、昭和20年10月、木村一治(もとはる)、田島英三理化学研究所員が、井樋ノ口交番所の庇の影、浦上天主堂の石碑の影、長崎医科大学附属病院の焼け跡で見つけた影の三方の影から爆心を測定し、そのときは爆心点高度を490メートル~±25メートルとしていた。
爆発と同時に空中の一点に摂氏数千万度ともいわれる火球が発生、体積が急速に膨張した。
爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間にその直径は約30メートル、温度は摂氏およそ30万度になり、さらに火球は百分の一秒から一秒の間に直径100~280メートルに達した。
火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間にわたって外部に強い影響を与えたと考えられている。
特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの間においての赤外線であった。
一説では地上物質の表面温度は、原爆の直下では恐らく3,000~4,000度にも達したと推定されている。
爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。
原子雲(きのこ雲)
爆発時の巨大なエネルギーは、地上のものを吸い上げ、吹きあげ、巻き上げて原子雲を立ち昇らせた。この原子雲は刻々と色と形を変えながら、ぐんぐんと上昇した。その上昇速度は次のようにみられている。
約0分30秒 3,000メートル
約1分30秒 4,500メートル
約2分30秒 6,000メートル
約4分30秒 7,000メートル
約8分30秒 9,000メートル
原爆投下機の機長・スウィーニーは「垂直の雲は驚異的なスピードで上昇を続けており、その色はつねに変化していた」「上昇してきた雲が、7,500メートルの高度で白くきのこ状に膨らみ、さらに加速しながら上へ噴出を続け、9,000メートルにいた我々を追い越して、少なくとも14,000メートルにまで達した」とその手記に記している。
このきのこ雲は、近郊はもちろん遠く県外でも望見されたが、意外にも、爆心地に比較的に近い距離に居た者には、きのこ雲は見えなかったと証言する者が多い。
立ち昇ったきのこ雲の雲頂はやがて崩れ、次第に東方へ流れていった。雲の移動速度は時速約12キロメートルと推定されている。
原子爆弾の炸裂時の状況について、長崎県は『8月9日長崎市空襲災害概要報告書』に次のように記している。
『原子爆弾ノ炸裂ニ際シテハ先ズ強烈ナ一大閃光ガ迸バシリマシタ。ソレハ恰モ強烈ナ「マグネシウム」ヲ焚イタト同ジ様ナ感ジデ、アタリ一面ガ白茶ケテボンヤリ霞ンデ仕舞イマシタ。ソシテ爆発ノ中心部デハソレト同時ニ、又多少距離ノアル所デハ夫激ヨリ瞬時ノ後、猛烈ナ轟音ト共ニ強烈ナ爆風ト熱気トガ襲ウテ来タノデアリマス』 ☆(Koga)