① 女子高生コンクリート詰め殺人事件
1988年11月25日夕方、少年Aは少年Cとともに通行人からひったくりをするか、若い女性を狙って強姦しようとして、それぞれ原付バイクに乗って埼玉県三郷市内を徘徊していた。
その中で自転車でアルバイト先の工場から帰宅途中の女子高生(当時17歳、埼玉県立八潮南高等学校3年生)を見つけ、CはAから「あの女を蹴飛ばしてこい!」と指示を受けたため、Cは女子高生もろとも自転車を蹴倒して側溝に転倒させた。
Cがその場を離れた後、Aは何食わぬ顔で少女に近づいて言葉巧みに「今、蹴飛ばしたの(C)は気違いだ。
俺もさっきナイフで脅かされた。
危ないから送ってやる」などと親切に言って、少女を信用させて近くの倉庫内へ連れ込んだ。
しかし、Aは、その後、一転して「自分はさっきのやつの仲間で、お前を狙っているヤクザだ。
俺は幹部だから俺の言うことを聞けば命だけは助けてやる。
セックスをさせろ!」「声を上げたら殺すぞ!」などと少女を脅迫して関係を迫り、11月25日午後9時50分ころ、タクシーで少女をホテルへ連れ込み強姦した。
11月25日午後11時頃、Aはホテルからかねて自分たちのたまり場になっていたCの家へ電話し、Bに「狙っていた女を捕まえてセックスした」などと話したが、BがAに対し「女を帰さないでください」などと言ったことから、AはBと待ち合わせることとした。
また、Cは、その時、Cの家に一緒にいたDを連れて約束の待合わせ場所へ赴き、少女を連れたA・B両名と合流した。
AはBらに対し「(少女を)ヤクザの話で脅かしているから、話を合わせろ」などと言い含め、4人は少女を連れて翌11月26日午前0時半頃、公園に移動した。
そこでAはジュースを買いに行くという名目で、C・D及び少女のいる所からやや離れた自動販売機の置かれた場所付近にBと共に行き、Bに「あの女、どうする?」と尋ねると「さらっちゃいましょうよ」などと返されたことから、その少女を猥褻目的で略取、監禁することとした。
A・B・C・Dの4人は少女を拉致しつつ、その公園からCの自宅(東京都足立区綾瀬)近くの別の公園に移動する間、CはA・B両名らの意を受けて少女を自室に監禁することを了承、Dもそれまでの成り行きからAらの意図を了解し、4人は少女を猥褻目的で略取、監禁することについて共謀した。
Aが少女に対し「お前はヤクザに狙われている。仲間がお前の家の前をうろうろしているから匿ってやる」などと嘘を言って脅迫し、4人で少女をCの自宅の2階の部屋(6畳)へ拉致し、同日から少女を殺害するまでの間、監禁した。
少女をCの自室に連れ込んだ後、4人は少女を交替で監視することとしたが、11月28日頃の深夜、4人に加えて不良仲間の2人の少年(E・F)がCの居室にたむろしていた。
その時、Aは仲間たちに少女を輪姦させようと企て、Bら3人や、E・Fらと共に代わる代わる覚醒剤を飲んで半狂乱になったように装った。
そして、いきなり、少女に襲いかかり、必死に抵抗する少女の口や手足を押さえ付けて馬乗りになるなどの暴行を加え、少女の着衣をはぎ取った。
AはBら3人やE・Fにも裸になれと命じ、これを受けてA・B両名以外の4人は着衣を脱ぎ捨てて裸になり、E・F・Dの順に少女を強姦した。
その際、Aは剃刀を持ち出して少女の陰毛を剃り、更にその陰部にマッチの軸木を挿入して火をつけるなどの凌辱を行なった。この時、少年たちは火で熱がる少女の様子を見て、笑って面白がるなどした。
少女は当初、逃げ出そうとしたり、隙を見て自宅に電話しようとしたが、激しい暴行に加え、少年らがヤクザ言葉を使っているのに怯えて抵抗を諦めた。
また、最初に監禁された際にはAが仲間たちの前で「しばらくしたら帰してやる」と話していたため、その言葉を信じた可能性もある。
1988年12月上旬頃、少女はなんとか彼らの目を盗んでその場から脱出・逃走して警察へ通報しようと試みるが、彼女の脱出は3人に見つかってしまった。
A・B・Cの3人は、自分達から逃げようとしたこの少女の行為に大いに腹を立て、A・B・Cの3人が少女の顔面を拳で多数回にわたって殴りつけて、Aが少女の足首にライターの火を押し付けて火傷を負わせるなどした。
Aらはその後も、時に別の不良仲間を加えるなどして、少女を全裸にしてディスコの曲に合わせて裸踊りさせたり、自慰行為を強要したり、少女の顔にマジックペンで髭を描いて興じたり、少女の陰部に鉄筋を挿入して何回も出し入れしたり、肛門にガラス瓶を挿入するなどの異物挿入をしたりした。
さらに、少女にシンナーを吸引させてウイスキー、焼酎などの酒を一気飲みするよう強要し、寒気の厳しい夜中、少女を半裸でベランダに出して牛乳や水などを多量に飲ませ、一度にたばこ2本をくわえさせて吸わせるなど度重なる暴行、凌辱を繰り返した。
1988年12月中旬から下旬頃、Aは少女が失禁した尿を踏んだということを口実に、BやCが少女の顔などを拳で何度も殴りつけ、少女の顔面が腫れ上がり変形したのを見て「でけえ顔になった」などと言って笑った。
その暴行の場にはAはいなかったが、翌日Cが「あんまり面白いからAにも見てもらおう!」などと言い、自慢気にAに少女の顔を見せた。
Aはその少女の顔面の変わりように驚いたものの、これに触発されたようにA自らも少女を多数回殴打し、少女の太もも、手などに揮発性の油を注ぎライターで点火し、火が消えると更に同じような行為を繰り返して火傷を負わせた。
この頃、少女は度重なる暴行に耐えかねて「もう殺して」などと哀願することもあった。
Aらは同月中旬頃から、主にCの兄Gに少女の監視役をさせるようになったが、その頃から少女は少量の食物しか与えられず、年末頃には牛乳をわずかに与えられる程度であった。
その結果、少女は、栄養失調とAらの度重なる暴行により心身ともに極度の衰弱状態に陥り、食欲は減退した。
また、少女の顔面は腫れ上がり、手足などの火傷は膿みただれて異臭を放つようになった。
その時の少女は、もう階下のトイレへ行くことも困難な状態であり、終日監禁場所であるCの部屋でぐったり横たわっていた。
1989年(昭和64年)1月4日、Aは前日夜から早朝にかけて行った賭け麻雀に大敗した後、Dの家に赴いたところ、B・C両名らがDと共に居合わせていた。
4人はそこでファミコンなどで遊んだが、麻雀に負けた鬱憤を少女へのいじめによって晴らそうと考えたAは「久し振りに、少女をいじめに行くか!」などと言い出し、まずCとDを先にC宅へ行かせ、若干遅れてBと共に自らもC宅へ赴いた。
このように4人は相前後して監禁場所のC宅に集まったが、少女はAらの暴行などにより、前述のように顔が変形するほどに腫れ上がり、手足などの一部は焼け爛れて化膿し、栄養失調に陥り、極度の衰弱状態で横たわっていた。
A・B・Cの3人は午前8時頃からCの部屋において、少女にBのようかんを与えて「これは何だ?」と問い、少女が「Bようかん」と答えると「なんでBを呼び捨てにするんだ?」などと因縁をつけて再び同様の質問をし、「Bようかんさん」と答えると「なんでようかんにさんをつけるんだ?」などと詰め寄って少女へのリンチを開始した。
3人で少女の顔などを多数回拳で殴り、背を足で蹴るなどの暴行を加え、AとBが蝋燭(Aがいじめの小道具に買い求めていた)に点火して少女の顔面に溶けた蝋を垂らして顔一面を蝋で覆い尽くし、両瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てるなどして面白がったが、これに対して少女はほとんど反応を示さず、されるがままになっていた。
その暴行が始まった直後、DはGと共に隣室にいたが、この頃Aの指示を受けたCに呼ばれて、部屋へ入りAら3人と合流した。
Aは、衰弱して自力で階下のトイレへ行くこともできない少女が紙パックに排泄した尿についてわざと「やばいよ、そんなものを飲んじゃあ」などと言い、BやCらに対し、暗に少女にその尿を飲ませるよう示唆した。
これを受けてBやCらは、少女に「(尿を)飲め!」と強く言い、パック内の尿をストローで飲ませた。
次いでBとCが少女の顔面を回し蹴りし、少女が倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけるなどしたところ、少女は何ら身を守ろうとせず、不意に転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こすなどした。
Aらは遅くともこの頃までには、このまま暴行を少女に加え続ければ少女が死亡するかも知れないことを認識したが、それでも、BとCが転倒した少女に殴る蹴るなどの暴行を繰り返した。
そして、少年たちは少女に対して後述のような激しい暴行を加え続け、そのために少女は鼻血を出し、崩れた火傷の傷から血膿が出て血が室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。
Dは、素手では血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、ガムテープでこれを留めた上、拳で少女の腹部や肩などを力任せに数十回殴りつけた。
Aらもこれに倣って拳をビニール袋で包み、次々に少女の顔、腹部、太ももなどを拳で殴りつけて足蹴りするなどした。
更に、Aが「鉄球」を含む総重量約1.74kgのキックボクシング練習器の鉄製脚部を持ち出し、その鉄球部分でゴルフスイングの要領で少女の太もも等を力任せに多数回にわたり殴りつけた。
Bらもこれに倣って代わる代わる少女の太ももなどをその鉄球で数十回殴打し、Dは肩の高さから鉄球を少女の腹部めがけて2、3回落下させた。
Aは繰り返し揮発性油を少女の太ももなどに注ぎ、ライターで火を点けるなどしたが、少女は最初は手で火を消そうとする仕草をしたものの、やがてほとんど反応を示すこともなくなり、そのまま、ぐったりとして横たわったままになった。
少年たちは、これらの一連の暴行を当日の午前8時頃から10時頃まで、約2時間にわたって休みなく続けた結果、少女は重篤な傷害により、1月4日午後10時ごろまでの間に死亡した。
1989年1月5日、A・B・Cは自分たちがよく出入りしていた暴力団関係者の経営する花屋にいた。
その時、Gから「少女の様子がおかしい」と電話で連絡を受けて、3人がCの居室へ行くと、少女はすでに死亡していた。
この重大な事態に直面したA・B・Cの3人は、自分たちの犯行が外部に発覚するのを恐れて、1月5日午後6時頃、Gと共謀して、少女の遺体をどこかに遺棄することを企てた。
まず少女の遺体を毛布で包み、大型の旅行かばんに入れてガムテープを巻きつけた。
次に、Aはかつての仕事先からトラックを借り出して、セメントを貰い受けて、近くの建材店から砂やブロックを盗み出した。
そして、トラックで少女の遺体と、付近で取ってきたごみ入れ用のドラム缶をC宅前に運び、そこでコンクリートを練り上げた。
そして、少女の遺体の入ったかばんをドラム缶の中に入れ、コンクリートをドラム缶の中に流し込み、更にブロックや煉瓦を入れて固定し、ドラム缶に黒色ビニール製ごみ袋を被せてガムテープで密閉した。
そして、1989年(昭和64年)1月5日の午後8時頃、A・B・Cの3人はトラックでドラム缶を運び、東京都江東区若洲の埋め立て地に遺棄した。
事件当時の現場付近は有刺鉄線に囲まれた工事現場であり、雑草が生い茂っていて、家電製品などの不法投棄が多い場所だった。
1988年12月初め頃、Cが少女を自宅に監禁していた時、Cの父親は、Cの部屋で奇声が聞こえたので注意しようと2階に上がった。
Cの父親は「うるさいぞ」と注意して部屋に入ろうとしたが中に入れてもらえず、その際に女性の声がしたため「女の子が遊びに来ている」と思ったという。
12月末のある日には被害者少女とみられる女性が2階にいることを知ったため、両親は少女にドアの外から「食事をあげるから出てきなさい」と説得して1階のリビングに降りて来させ、一緒に和室で夕食を摂り、その際に「家に帰りなさい」と注意したという。
夕食にはCと仲間の少年も同席していたが、少女はほとんど話をしなかったという。
両親はその後「女の子が1人だけ一階に残った隙に『帰りなさい』と声を掛け、玄関から送り出した」が、Cが間もなく逃走を知って追いかけ、連れ戻していた。
Cらが両親から注意を受けたのはこの1度きりで、少年らから常に激しい暴行を受けていたため、怯えきっていた少女はその後、逃げ出したり助けを求めるそぶりさえできなかったとみられる。
② 三島由紀夫割腹事件
三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(本名・平岡公威)が、憲法改正(憲法第9条破棄)のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。
三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。
この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家が起こした異例の行動に一様に驚きを示した。
2000年(平成12年)に『文藝春秋』が実施した「20世紀における20大事件」というアンケートでは、1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗戦に次ぐ、第2位の出来事となった。
警視庁が2016年(平成28年)に実施した「警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート投票においては、三島事件は第29位となった(警視庁職員だけの投票では第52位)。
※なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。
経緯
総監を訪問し拘束。
舞台となった市ヶ谷駐屯地。
事件当時の看板は墨文字の書体で「陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地」となっていた。
渦中となった東部方面総監部は1994年に朝霞へ移駐している。
1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1)の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門(四谷門)を通過し、東部方面総監部二階の総監室に通じる正面玄関に到着。
出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された。
この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった。
応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・益田兼利陸将(57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。
今日は例会があるので正装で参りました」と説明した。
ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”に関してのものになった。
総監が、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。
鑑定書をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた。
三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。
しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した。
手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。
三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。
この時、11時5分頃であった。
三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。
それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した。
古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監にさるぐつわを噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた。
総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた。
その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全て観音開きドア)に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。
幕僚らと乱闘
お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本泰治3佐が、総監室の物音に気づき、その報告を受けた原勇1佐が廊下に出て、正面入口の擦りガラスの窓(一片のセロハンテープが貼られ、少し透明に近づけてある)から室内を窺うと、益田総監の後ろに楯の会隊員たちが立っていた。総監がマッサージでも受けているかのように見えたが、動きが不自然なため、中に入ろうとすると鍵が閉まっていた。
原1佐がドアに体当たりし、隙間が2、30センチできた。
室内から「来るな、来るな」と森田必勝が叫び声を挙げ、ドア下から要求書が差し出された。
それに目を通した原1佐らはすぐに行政副長・山崎皎陸将補(53歳)と防衛副長・吉松秀信1佐(50歳)に、「三島らが総監室を占拠し、総監を監禁した」と報告。
幕僚らに非常呼集をかけ、沢本3佐の部下が警務隊に連絡した。
総監室左側に通じる幕僚長室のドアのバリケードを背中で壊し、川辺晴夫2佐(46歳)と中村菫正2佐(45歳)がいち早くなだれ込むと、すぐさま三島は軍刀拵えの“関孫六”を抜いて背中などを斬りつけ、続いて木刀を持って突入した原1佐、笠間寿一2曹(36歳)、磯部順蔵2曹らにも、「出ろ、出ろ」、「要求書を読め」と叫びながら応戦した。
この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという。
この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った。
時刻は11時20分頃であった。
彼ら5人を退散させている間に、さらに幕僚副長室側から、清野不二雄1佐(50歳)、高橋清2佐(43歳)、寺尾克美3佐(41歳)、水田栄二郎1尉、菊地義文3曹、吉松秀信1佐、山崎皎陸将補の7人が次々と突入してきた。
副長の吉松1佐が、「何をするんだ。話し合おうではないか」と言うが乱闘は続き、古賀浩靖は小テーブルや椅子を投げつけ、小川正洋は特殊警棒で応戦した。
森田も短刀で応戦するが、逆に寺尾3佐に短刀をもぎ取られた。
三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した寺尾3佐、高橋2佐に斬りつけた。
総監を見張っていた小賀に、清野1佐が灰皿を投げつけると、三島が斬りかかった。
清野1佐は、地球儀を投げて応戦するが躓いて転倒。
山崎陸将補も斬りつけられ、幕僚らは総監の安全も考え、一旦退散することにした。
この乱闘により自衛隊員8人が負傷したが、中でも最も重傷だったのは、右肘部、左掌背部切創による全治12週間の中村菫正2佐だった。
三島の刀を玩具だと思って左手でもぎ取ろうとしたため掌の腱を切った中村2佐は、左手の握力を失う後遺症が残った。
しかし中村2佐は、三島に対して「まったく恨みはありません」と語り、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。
相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」と述懐している。
11時22分、東部方面総監室から警視庁指令室に110番が入り、11時25分には、警視庁公安部の公安第一課(本来は極左対策課)が警備局長室を臨時本部にして関係機関に連絡し、120名の機動隊員を市ヶ谷駐屯地に向けて出動させた。
室外に退散した幕僚らは三島と話し合うため11時30分頃、廊下から総監室の窓ガラスを割った。
最初に顔を出した功刀松男1佐が額を切られた。
吉松1佐が窓越しに三島を説得するが、三島は「これをのめば総監の命は助けてやる」と、最初に森田がドア下から廊下に差し出したものと同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた。
幕僚幹部らは三島の要求を受け入れることを決め、11時34分頃に吉松1佐が三島に、「自衛官を集めることにした」と告げた。
三島は「君は何者だ。
どんな権限があるのか」と質問し、吉松1佐が「防衛副長で現場の最高責任者である」と名乗ると、三島は少し安心した表情となり腕時計を見てから、「12時までに集めろ」と言った。
その間、三島は森田に命じ、益田総監にも要求書の書面を読み聞かせた。
手の痺れた益田総監は、細引を少し緩めてもらった。
総監は、何故こんなことをするのか、自衛隊や私が憎いのか、演説なら内容によっては私が代わりに話すなどと説得すると、三島は総監に檄文のような話をして、自衛隊も総監も憎いのではない、妨害しなければ殺さないと告げ、「きょうは自衛隊に最大の刺戟を与えて奮起を促すために来た」と言った。
なお、三島が総監室で恩賜煙草を吸ったかどうかは不明であるが、「現場で煙草を吸うくらいの時間はあるだろう」と、他の荷物と一緒に、園遊会で貰った恩賜煙草もアタッシュケースに入れるように前々日にメンバーに渡していたという。
11時40分、市ヶ谷駐屯地の部隊内に「業務に支障がないものは本館玄関前に集合して下さい」というマイク放送がなされ、その後も放送が繰り返された。
11時46分、警視庁は三島ら全員について逮捕を指令した。
駐屯地内には、パトカー、警務隊の白いジープが次々と猛スピードで入って来ていた。
この頃、すでにテレビやラジオも事件の第一報を伝えていた。
バルコニーで演説
部隊内放送を聞いた自衛官約800から1000名が、続々と駆け足で本館正面玄関前の前庭に集まり出した。
中にはすでに食堂で昼食を食べ始め、それを中断して来た者もあった。
彼らの中では、「暴徒が乱入して、人が斬られた」「総監が人質に取られた」「赤軍派が来たんじゃないか」「三島由紀夫もいるのか」などと情報が錯綜していた。
11時55分頃、鉢巻に白手袋を着けた森田必勝と小川正洋が、「檄」を多数撒布し、要求項目を墨書きした垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らした。
自衛官2人がジャンプして垂れ幕を引きずり下そうとしたが、届かなかった。
前庭には、ジュラルミンの盾を持った機動隊員や、新聞社やテレビなど報道陣の車も集まっていた。
当日、総監部から約50メートルしか離れていない市ヶ谷会館に例会に来ていた楯の会会員30名については、幕僚らは三島の要求を受け入れずに会館内に閉じ込める処置をし、警察の監視下に置かれて現場に召集させなかった。
不穏な状況を知って動揺する会員らと警察・自衛隊との間で小競り合いが起こり、ピストルで制止された。
正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀・“関孫六”の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った。
日本刀が見えたのは一瞬のことだった。
三島の頭には、「七生報國」(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意と書かれた日の丸の鉢巻が巻かれていた。
右背後には同じ鉢巻の森田が仁王立ちし、正面を凝視していた。
「三島だ」「何だあれは」「ばかやろう」などと口々に声が上がる中、三島は集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて絶叫しながら演説を始めた。
〈日本を守る〉ための〈建軍の本義〉に立ち返れという憲法改正の決起を促す演説で、主旨は撒布された「檄」とほぼ同じ内容であった。
上空には、早くも異変を聞きつけたマスコミのヘリコプターが騒音を出し、何台も旋回していた。
おまえら、聞け。
静かにせい。
静かにせい。
話を聞け。
男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。
いいか。
それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。
諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。
諸君と日本……アメリカからしか来ないんだ。
シビリアン・コントロールといって……シビリアン・コントロール……んだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法の下でこらえるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。
そこでだ、おれは4年待ったんだ。
自衛隊が立ち上がる日を。
……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。
諸君は武士だろう。
武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。
どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。
これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。
— 三島由紀夫、バルコニーにて、自衛官たちは一斉に、「聞こえねえぞ」「引っ込め」「下に降りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何が解るんだ」「ばかやろう」と激しい怒号を飛ばした。
「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」と野次が飛ぶと、すかさず三島はそれに答えて、「抵抗したからだ」と凄まじい気迫でやり返した。
その場にいたK陸曹(原典でも匿名)は、うるさい野次に舌打ちし、「絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした」「ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した」と後に語り、いったん号令をかけて集合させたなら、きちんと部隊別に整列して聴くべきだったのではないかとしている。
三島は、〈諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか〉と叫び、10秒ほど沈黙して待ったが、相変わらず自衛官らは、「気違い」「そんなのいるもんか」と罵声を浴びせた。
予想を越えた怒号の激しさやヘリコプターの騒音で、演説は予定時間よりもかなり少なく、わずか10分ほどで切り上げられた。
三島が演説を早めに切り上げたのは、機動隊が一階に突入したのを見たからだとも推測されている。
演説を終えた三島は、最後に森田と共に皇居に向って、〈天皇陛下万歳!〉を三唱した。
その時も、「ひきずり降ろせ」「銃で撃て」などの野次で、ほとんども聞き取れないほどだった。
この日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。
三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。
バルコニー前に集まっていた自衛官たちは通信、資材、補給などの、現職においてはどちらかといえば三島の想定した「武士」ではない隊員らであった。
三島は神風連(敬神党)の精神性に少しでも近づくことに重きを置いて、マイクを使用していなかった。
マイクや拡声器を使わずに、あくまでも雄叫びの肉声にこだわった。
三島は林房雄との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、神風連が西洋文明に対抗するため、電線の下をくぐる時は白扇を頭に乗せたことや、彼らがあえて日本刀だけで戦った魂の意味を語っていた。
三島の演説をテレビで見ていた作家の野上弥生子は、もしも自分が母親だったら「(マイクを)その場に走って届けに行ってやりたかった」と語っていたという。
水木しげるは、『コミック昭和史』第8巻(1989年)で、当時の自衛官が演説を聴かなかったことについて、「三島由紀夫が武士道を強調しながら自衛隊員に相手にされなかったのは自衛隊員も豊かな日本で個人主義享楽主義の傾向になっていたからだろう」としている。
事前に三島の連絡を受け、当日朝、11時に市ヶ谷会館に来るように指定されていたサンデー毎日記者・徳岡孝夫とNHK記者・伊達宗克は、楯の会会員・田中健一を介して三島の手紙と檄文、5人の写真などが入った封書を渡されていた。
それは万が一、警察から檄文が没収され、事件が隠蔽された時のことを惧れて託されたものだった。
徳岡はそれを靴下の内側に隠してバルコニー前まで走り、演説を聞いていた。
前庭に駆けつけたテレビ関係者などは、野次や騒音で演説はほとんど聞こえなかったと証言しているが、徳岡孝夫は、「聞く耳さえあれば聞こえた」「なぜ、もう少し心を静かにして聞かなかったのだろう」とし、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。
この演説の全容を録音できたのは文化放送だけだった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や報道ヘリコプターの騒音の中、〈それでも武士か〉と自衛官たちに向けて怒号を発する三島の声を良好に録音することに成功し、スクープとなったという。
文化放送報道部監修『スクープ音声が伝えた戦後ニッポン』(2005年、新潮社)の付属CDでこの演説の肉声を聴くことができる。
割腹自決へ
12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。
そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。
三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。
そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。
割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。
そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。
左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。
総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。
介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。
最後に小賀が、三島の握っていた短刀を使い首の皮を胴体から切り離した。
その間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。
続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。
その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。
総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「自首したらどうか」と声をかけた。
3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。
総監が、「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた。
三島と森田の首の前で合掌し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。
12時20分過ぎ、総監室正面入口から小川と古賀が総監を両脇から支え、小賀が日本刀・関孫六を持って廊下に出て来た。
3人は総監を吉松1佐に引き渡し、日本刀も預け、その場で牛込警察署員に現行犯逮捕された。
警察の温情からか3人に手錠はかけられなかった。
群がる報道陣の待ち受ける正面玄関からパトカーで連行されて行く時、何人かの自衛官が3人の頭を殴ったため、警察官が「ばかやろう、何をするか」と一喝して制した。
12時23分、総監室内に入った署長が2名の死亡を確認した。
「君は三島由紀夫と親しいのだろ?すぐ行って説得してやめさせろ」と土田國保警備部長から指示を受けて、警務部参事官兼人事第一課長・佐々淳行が警視庁から現場に駆けつけたが、三島の自決までに間に合わなかった。
佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。
赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。
いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している。
人質となった総監はその後、「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」とし、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。
憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と語った。
現場の押収品の中に、辞世の句が書かれた短冊が6枚あった。三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった。
益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐— 三島由紀夫
☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産