高く登ろうと思うなら、自分の脚を使うことです。
高い所へは、他人によって運ばれてはならない。
人の背中や頭に乗ってはならない。
ニーチェというドイツの思想家の事を私は時々考える。
彼はなぜ、強大なキリスト教を敵に回し、弱者の宗教だと喝破し、私たちに自律の道を歩ませようとしたのか。
彼自身が、牧師の家で育ち、どっぷりキリスト教に浸かり、キリスト教の中で、育ったのに、なぜ。
私は、ニーチェのことを考える時、子どもと親の自律劇を考えてしまうのです。
子どもが親から自律するために、アンチテーゼとして、親の価値観を否定し、自分自身の価値観を打ち立てようともがく姿を。
そうなのです。
自律とは、他律の裏返しなのです。
つまり、完全な自律などなく、いつも他律というアンチがあってこその自律なのです。
自律するためには、何かから離れるべきものが必要なのです。
ニーチェにとって、キリスト教は、自分の考えを明確にする何かだったのです。
まさに、親として、キリスト教が必要だったのです。
自律とは、一つの親離れの物語です。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産