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終戦記念日とA級戦犯 15.Aug.2022

終戦記念日とは第二次世界大戦が終わった日。
多くの日本人はそう考えているかもしれない。
たしかに1945年(昭和20)8月10日、日本は米英中3国によるポツダム宣言受諾を申し入れ、15日無条件降伏し、第二次世界大戦が終結した。
その後、8月15日を戦争の誤りと惨禍を反省、平和を誓うとして、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。
A級戦犯の東條英機は連合国から見ると侵略戦争を仕掛けてきた戦争犯罪人、そして日本国民から見ると、勝てるわけのない戦争を始めて、国をつぶしてしまった国賊です。
東條について私なりにまとめてみました。
お読みになって御自分で判断して下さい。
●東條は関東軍時代は憲兵司令官、参謀長として板垣征四郎などと企んで満州でケシを大規模栽培し、麻薬の阿片を満州、中国で大量に密売。
巨額のカネを儲けて陸軍主戦派の秘密資金にした。
●関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍大臣と一貫してして中国大陸侵略を促進、太平洋戦争の主因を作った。
●第三次近衛内閣では、近衛文麿は山本五十六などの影響もあり平和路線を摸索していた。
悪化する日米関係を見すえて日本の針路を決めるにあたり、近衛の考えを知っていた海軍大臣は「総理に一任」と。
近衛「私に任されたら支那からは撤退。アメリカとは関係調整」と答えた。
それに東條陸軍大臣は激怒、「中国からは絶対撤退しない。アメリカとは戦争する」と強烈な横槍を入れた。
そして会議のあと、わざわざ近衛のところへ二度も使いを送り、「あの件では陸軍はこれ以上話し合うつもりはない」とトドメを刺した。
その為に第三次近衛内閣は総辞職に追い込まれた。
●次期首相になった東條は、天皇から「今までの経緯は白紙に戻し、米英との戦争を避けるように」と要望されましたが、天皇の要望までも無視して戦争を始めた。
東條を首相に推薦した木戸幸一内大臣は、戦後、「あれは失敗だった」と言ったそうです。
国が崩壊し310万の日本人が死んでからそんな事を言っても遅い。
「誰が首相でも戦争は避けられなかった。東條英機はたまたまあの時期に首相だったので損をした」と言う人がいますがとんでもない、国政を任されると言う事がどういう事か、トップの地位の者の権限、責任とはどういうものかを理解しない意見です。
戦争に反対であれば「総理大臣・陸軍大臣として認められない」と言えばそれでいいのです。
それが言えなかったとしたら政治家として無能、無責任だし、東條の場合は「言えなかった」のではなくて「言わなかった」のです。
天皇から「戦争は避ける様に」要請を受けた東條が戦争回避の為に必死の努力をしたと言う記録はありません。
なぜか? そんな努力はしなかったからです。
海軍の米内光政、山本五十六はそれをやった。
陸軍の暗殺の脅迫や海軍部内の好戦派の突き上げに負けず、彼らが政府の要職にあった時は三国同盟も対米英戦争もやらせなかった。
やる気があれば出来たのです。
戦争が始ってから、天皇は側近に「米内の内閣があのまま続いていたら戦争にならなかったかも知れないね」と言ったそうです。
●戦争が始まると、東條は総理大臣、陸軍大臣に加えて内務・軍需・商工・外務・文部の各大臣、更に憲法違反の陸軍参謀総長まで兼任、歴任。
憲兵を私兵化し、全国にスパイ網を敷いて東條幕府と呼ばれた専制政治を行った。
自分のお気に入りの腰巾着で周りを固め、気に入らないものは陸軍の高官ですら前線へ左遷。
民間人の場合は徴兵年齢を大幅に超えている人も懲罰徴兵で死地に送り込んだ。
国民が無駄をしていないか調べると言って家々のゴミ箱をのぞいて歩いたり、築地の魚市場へ行ったり、、、大戦争をしている国の総理大臣でしょうか?
しかも戦争はボロ負け。
余りにひどさに陸軍、海軍双方に具体的な暗殺計画がありました。
東條はかんしゃく持ちで、閣議でもすぐハラを立てるのでみんな困ったそうです。ふた言目には「私は天皇陛下に信任された総理大臣だ。
その私を批判するのは陛下を批判する事になる」、と。子供ですね(笑)」
●天皇に対する忠誠心もウソですね。
サイパン陥落で辞職させられた時の部内への訓示で、東條は「天皇への忠義には広義と狭義がある。
狭義の忠勤は天皇の意思を直ちに実行する。
しかし広義の忠義は天皇の意思がこちらの考えと違っていたらそれを正す。
それでも変わらなければ強制してでもこちらの意見を通す。自分は後者を選ぶ」と。
これでは忠誠心どころか天皇への反乱ですよ。
●東條は軍人としても無能。
戦争ボロ負けの昭和20年2月26日、天皇の質問に答えて「戦争はまだ五分五分。本土決戦があっても米軍の三分の一の兵力で勝てます」と言って天皇を呆れさせた。
そして敗戦。
東條は自分が始めた戦争で、国がつぶれてしまった責任を取って日本の武士らしく自決するどころか、東京裁判がなければ戦後も生き延びるつもりだった。
東條の出した戦陣訓の為に自殺同然のバンザイ突撃や飢え死にした兵士たちは、同じ神社に祀れて喜んでいませんよ。
●日本が降伏した時、あの東條メモにこう書きました(現代語訳)
「政府、国民がこんなに簡単に手をあげるような意気地なしとは夢にも思っていなかった。そんな国民をあてにして戦争指導した自分が馬鹿だった」
「たった二発の原爆で降伏してしまった」、と。
こうなると気が狂っていたのではないかとすら思います。
無茶な指導に、黙々と従って死んだ忠勇な兵士たちや16歳からの特攻隊の若者たち、苦しい生活を我慢した国民を、侮辱した言い草であり昭和天皇の聖断をバカにしたコメントです。
そして自分が始めた戦争で、国が崩壊し数百万の日本人が死んだと言うのに、大日本帝国陸軍大将として堂々と自決すら出来なかった卑怯者です。
敗戦後の1948年11月に行われた東京裁判で、絞首刑が言い渡され、12月23日に刑が執行されています。
このとき、東条英機は64歳でした。
大蛮行をやった東条英機が、いなければ日本は被爆国にならなかったでしょう。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産