学問のある人とは、本を読んで多くのことを知っている人である。
教養のある人とは、その時代に最も広がっている知識やマナーをすっかり心得ている人である。
そして有徳の人とは、自分の人生の意義を理解している人である。
自分は何を知っているのか。
そう自問したソクラテスは、何も知らないことに気が付いた。
しかし、ソクラテスが何も知らないなどということは多分ないはずです。
色々なことを知っていたはずです。
しかし、ソクラテスは、何も知らないと自覚したのです。
世間では、それを「無知の知」などというが、実は、ソクラテスが知らないと思っていたのは、人生の意義について、だったのではないか。
それも完全には知り得ないことだと自覚し、生きている限り、それを知ろうとすることこそ、人間の生き方だと思っていたのではないか。
私たちは、知るという次元をどこに置くかで、生き方が違ってくるはずです。
ものを知っている次元で満足するのか、ものの本質を知っている次元まで行くのか、それともそれらのものが自分にとっても、人生にとっても、どういう価値があるのかを知る次元まで行くのか。
それとも、人間や人生とは、何なのかを知る次元まで満足しないのか。
知るということの次元が実は、生き方を創っているのかもしれない。
知ることをどこの次元で満足するのか。
ここが人生の分かれ目なのです。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産