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真珠湾攻撃 8.Dec.2025

真珠湾攻撃は、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、第二次世界大戦において大日本帝国海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った、航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による攻撃である。
太平洋戦争における南方作戦の一環として、イギリスに対するマレー作戦開始(太平洋戦争開戦)に次いで実施された。当初はマレー作戦と「同時」の予定だったが、一部の練度の低い戦隊に暗闇の中で編隊を組ませる危険を避けるために夜明けを待ち、攻撃予定が1時間半繰り下げられたためである。
すでに日中戦争を戦っていた日本は中華民国を含む英米・オランダなど連合国との全面戦争に突入した。
戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失。
開戦初頭にアメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという作戦目的を達成した。
1898年(明治31年)、アメリカはハワイ諸島を併合し、米西戦争でフィリピン諸島とグアム島を植民地とした。
1908年(明治41年)にアメリカがオアフ島に設置した真珠湾海軍基地は、日本海軍にとって脅威となっていた。
真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で防御されていた。
戦艦に匹敵する16インチ砲を備えた沿岸砲台もあったが露天砲台だったため、空からの攻撃に対しては無防備であった。
また1910年(明治43年)11月、山本英輔海軍少佐が斎藤実海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出している。
日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。
これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。
だが、1939年(昭和14年)に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は当初より日米の国力差を熟知して対米開戦には反対の姿勢でありつつも、異なる構想を持っていた。
アメリカに駐在武官として長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えており、1928年(昭和3年)の時点でハワイ攻撃を提唱していた。
戦間期に発達した航空母艦(空母)とそれに搭載する艦上爆撃機(艦爆)、艦上攻撃機(艦攻)により、当時は日本統治下だった南洋諸島からでも遠いハワイを空襲することが可能になっていた。
日本は、日中戦争/支那事変(1937年〜)の拡大と欧州における第二次世界大戦の勃発(1939年)、それらに伴う1940年の仏印進駐および日独伊三国同盟締結で米国との対立を深め、米国などは対日経済制裁を順次強化していた(ABCD包囲網)。
日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。
アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。
真珠湾攻撃の直前にイギリスの植民地であるマレー半島での上陸作戦が開始されていることで、日本とイギリス(とオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との戦争が開始されたことに続いて、真珠湾攻撃でアメリカとの間にも戦争が開始された。
真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会はアメリカと日本は開戦したと宣言した。
12月10日、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。
当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争(支那事変)にも介入には消極的であり、連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。
さらに、日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃が始まることとなったことにより、真珠湾攻撃が「日本人による卑劣な騙し討ち」として、主としてアメリカ政府により宣伝されることとなったことも、アメリカおよび連合国の世論に影響したといわれる。
もっともこれについては、分かりやすいのでスローガン的に騙し討ちを強調したものの、そのようなことが本質ではなく、米国民にとっては米国本土の一部が攻撃されたことが憤激を招いたのであり、これがフィリピンであればこれほどの怒りに結びつかなかったであろうとする説もある。
イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信した」と回想している。
イギリスに亡命していた反ドイツ派将軍ド・ゴールは米国参戦により戦争は勝ったも同然と言ったとされ、以後ド・ゴール派は反ドイツ活動よりも亡命フランス人勢力内の敵対派との権力闘争と粛清の方に熱心だったとも言われる。