第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)午前11時02分に、連合国のアメリカ合衆国が枢軸国の日本の長崎に対して原子爆弾を投下した出来事であり、この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された最後の核兵器である。
原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。
8月6日の広島原爆投下作戦において観測機を務めたB-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が小倉市(現・北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられた。
その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。
この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた。
出撃機は合計6機であった。
スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。
これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機は「ボックスカー」となった。
ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した。
先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。
硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000メートルまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった。
40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行することにした。
午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。
しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために、目視による投下目標確認に失敗する。
この時視界を妨げていたのは前日にアメリカ軍が行った、八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ7キロメートル)の残煙と靄だといわれる(アメリカ軍の報告書にも、小倉市上空の状況について『雲』ではなく『煙』との記述が見られる)。
また、この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が、8月9日の朝、敵機が少数機編隊で北上している報を聞き、上司の命令で煙幕装置に点火。
新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言している。空を覆い隠すほどの黒煙が上がったことを確認し、地下壕へ避難してから約30分後、新型爆弾で長崎が攻撃されたことを知る。
煙幕作戦に携わった者たちは、戦後長く誰も語ることをせず重い記憶を背負って生きていたと証言した。
その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。
この間およそ45分間が経過した。
この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上「ボックスカー」は燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。
長崎に向かう途中、グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターホンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまった。
直後、「チャック! どこにいる?」という、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。
結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、急旋回してグレート・アーティストとニアミス。
危うく空中衝突をするところであった。
長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。
しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。
ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎市上空に接近した際には、高度1,800メートルから2,400メートルの間が、80~90%の積雲で覆われていた。
補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。
スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。
命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。
ビーハンは大声で叫んだ。
「街が見える!」雲の切れ間に第2目標発見!」
スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。
工業地帯を臨機目標として、午前10時58分、高度9,000メートルから「ファットマン」を手動投下した。
ファットマンは放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3キロメートルそれた松山町171番地の別荘のテニスコート上空503メートル±10メートルで炸裂した。
「ボックスカー」は爆弾を投下直後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。
爆弾投下後から爆発までの間には後方の「グレート・アーティスト」から爆発の圧力、気温などを計測する3個のラジオゾンデが落下傘をつけて投下された。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村上川内(爆心地から11.6キロメートル)、田結村補伽(同12.5キロメートル)、江の浦村嵩(同13.3キロメートル)に落下した。
「ボックスカー」と「グレート・アーティスト」はしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。
長崎を090158Zに有視界で爆撃した。
戦闘機の迎撃も、対空砲火もなし。
結果は「技術的には成功」といえるが、他の要素のため、次の行動に移る前に、会議が必要である。
外見上の効果は広島と同じ。
投下後の機内の故障により、沖縄に向かう必要あり。
燃料は沖縄までしかない。
この時の原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。
この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っている。
長崎のキノコ雲については、爆心地から約10キロメートル離れた香焼町で炸裂から約15分後に住民が撮影した写真が残されている他、遠くの県からも見えたとの証言もある。
約100キロメートル離れた熊本県熊本市でも「ピカッと閃光が走り、空気がぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた」との証言がある。
また遠く200キロメートル離れ、大分県中津市でも「あの日長崎方面から立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった」と当時を語る証言もある。
ボックスカーは長崎市上空を離脱する際には残燃料約1,000リットルであり、計算では沖縄の手前120キロメートルから80キロメートルまでしか飛べないと考えられた。
スウィーニーはエンジンの回転数を落とし徐々に降下することで燃料を節約し、午後2時に沖縄県の読谷飛行場に緊急着陸した。
残燃料は僅か26リットルであったという。
着陸後、スウィーニーはドーリットル空襲で名を馳せたアメリカ第8航空軍司令官ジミー・ドーリットル陸軍中将と会談した。
燃料補給と整備が終了したボックスカーとグレート・アーティストは17時過ぎに離陸、23時06分にテニアン島に帰還した。
長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾である。
このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆する。
長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)相当の規模にのぼる。
この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000トン相当)の1.5倍の威力であった。
長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減された。
周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。
長崎県知事が広島原爆教訓をもとに、9日に避難命令の検討を行おうとしていたが、間に合わなかった。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産