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今日の2件の大事件 14.Apr.2024

➀ タイタニック号沈没事故とは、1912年4月14日の夜から4月15日の朝にかけて、イギリス・サウサンプトン発アメリカ合衆国・ニューヨーク行きの航海中の4日目に、北大西洋で起きた海難事故である。
当時世界最大の客船であったタイタニックは、1912年4月14日の23時40分(事故現場時間)に氷山に衝突した時には2,224人を乗せていた。
事故発生から2時間40分後の翌4月15日の2時20分に沈没し、1,514人が亡くなり、710人が生還した。
これは1912年当時、海難事故の最大死者数であった
ニューヨーク港に向けて航行中に「海氷が存在する」という警告を4月14日中に7件受けていたにもかかわらず、タイタニック号の見張りが氷山に気付いたとき船は最高速に近いスピードで進んでいた。
衝突を避けようとしたが、船は右舷側に斜方向からの打撃を受け、全16区画のうち5つの区画に穴が開いてしまった。
タイタニックの船首部は4つの区画が浸水しても沈まないように設計されていたが、それでも十分ではなく、敏感なクルーはこの船が沈没することを察知した。
クルーは遭難信号灯と無線で助けを求め、乗客を救命ボートに乗せた。
しかし、それは近くの救助船までの移乗用として簡易的に設計されたもので、搭載数もすべての乗船者を載せるにはあまりに少ないものだった。
船体沈没の進行は予想よりも早かった。
やむなくボートには女性と幼い子供が優先的に乗せられ、多くの男性は強制的に排除されたが、クルーも救助活動に不慣れな者が多く、定員に満たないまま出発するボートもあった。
結果的に多数の乗客乗員が船に取り残された。
タイタニックは1,000人以上を乗せたまま沈んだ。
海に浸かった人のほとんどが数分後に低体温症により死亡した。
救助にあたった客船「カルパチア」が4月15日の9時15分に最後の1人を救い上げた時は、既に船の沈没から7時間、衝突から実に約9時間半が経っていた。
この災害は、救命ボートの数、緩い規則、旅客の等級によって異なる避難時の対応など、ずさんな危機管理体制が多くの人の義憤を引き起こした。
この事故をきっかけとして救助のあり方が見直され、1914年に海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS)が作られた。
これは今も海の安全を守っている。

②  山口・光市母子殺害事件
少年Fは1999年4月14日午後、「美人な奥さんと無理矢理にでもセックスをしたい」 と思い、同じアパート群の自宅から約200 m離れた、事件現場となったアパート(「沖田アパート」:新日本製鐵光製鐵所社宅)の3棟に向かった。
この時、Fは「強姦によってでも性行為をしてみたい」 という気持ちになっていた一方、「そのようなことが本当にできるのだろうか」 と半信半疑に思いつつも、布テープ・こて紐などを携帯し、アパートの10棟から7棟にかけ、排水検査の作業員を装って戸別に訪ね、呼び鈴を鳴らすなどして、若い主婦が留守を守る居室を物色して回った。
その行動を誰からも怪しまれなかったことから、Fは次第に「本当に強姦できるかもしれない」 などと自信を深めていった。
そして14時20分ごろ、アパート7棟の被害者宅を訪れ、排水検査を装ったところ、被害者女性A(事件当時23歳)に部屋へ招じ入れられたことなどから、室内に上がりこんだ。
FはAを「若くてかわいい女性だ」 と思ったことから、「強姦によってでも性行為をしたい」 という気持ちを抑えきれなくなり、トイレなどで排水検査をしているふりをしながら様子を窺い、14時30分ごろにAを強姦しようと企てて背中から抱き着いた。
その上でAを仰向けに引き倒し、馬乗りになるなど暴行を加えたが、大声を出されて激しく抵抗されたため、殺害を決意。
仰向けに倒れたAに馬乗りになった状態で、Aの首を絞めて殺害し、強姦した。
同日15時ごろ、Aの長女B(事件当時生後11か月)が激しく泣き続けたため、犯行の発覚を恐れるとともに、Bが泣き止まないことに激昂。
Bの首に所携の紐を巻き付け、強く引っ張ることで絞殺した。
そして犯行の発覚を遅らせるため、Bの死体を押入の天袋に投げ入れ、Aの死体を押入の下段に隠すなどしたほか、被害者宅から自分の指紋が付着した洗浄剤スプレー・ペンチを持ち出して隠匿するなど罪証隠滅工作をした。
そして、Aが管理していた現金約300円および地域振興券約6枚(額面合計約6,000円相当)などが入った財布1個(物品時価合計約17,000円相当)を窃取し、その地域振興券でカードゲーム用のカードや菓子類を購入した。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産