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今日の二つの大事件 1.Sep.2024

➀ 関東大震災
関東大震災を忘れないために毎年9月1日を 「防災の日」 と定め、各所で防災訓練等が行われるようになりました。
1923年9月1日11時58分、相模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震が発生。
地震そのものの規模は最大級とは言えないが、人口密度の高い地域と、火災により観測史上最大規模の死者14万人、現在の貨幣価値に換算して約320兆円という甚大な被害をもたらした。
地震の主要動が10分間にわたって継続したと言われ、振幅は安政江戸地震よりも大きかった。
震源地は伊豆大島北端にある千ヶ崎の北15km付近の相模湾海底で、激震地域は、伊豆半島を横ぎり、三島から富士山麓を経て甲府盆地に入り、それから東北に進んで熊谷、館林、古河、下館を過ぎ、土浦から房総半島中央を横断して勝浦付近にまで渡るという余りに広大で非常に不規則な円状区域だったために、正確な震央について、少なからず当時から疑問の声があがっていた。
1993年の研究によって、関東大震災では11時58分32秒に発生したM7.9の本震から3分後の12時01分にM7.2、5分後の12時03分にM7.3という巨大な揺れが三度発生した 「三つ子地震」 であることが最新の研究で判明した。
つまり、本震の震央が神奈川県西部、続いて東京湾北部、山梨県東部が三つの地震の震源となった。
被害は東京 (当時の人口:都市部250万人、郡部100万人) 神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨に及ぶ広大な地域で震度6以上の揺れが発生。
震度7の地域は、本震の震央とされる神奈川県小田原~鎌倉にかけての相模平野一帯から横浜、東京、房総半島南部にと広範囲に広がり、20cm以上の強い揺れが1分以上続いたとも伝えられる。
震源とされる断層は、神奈川県西部から小田原、鎌倉、横須賀、横浜、千葉県館山を含む長さ約130km、幅70kmに至り、この断層が平均2.1mのずれを生じたという。
地震の直接被害は震源に近い神奈川の相模湾をのぞむ地域 (特に横浜・小田原・国府津・大磯・茅ヶ崎・鎌倉) と房総の千葉 (特に那古・船形・北条・館山) が最激震地となり甚大で、沿岸部の木造家屋30%が一瞬で倒壊、震源近くの地域では70%以上の倒壊率だった。
東京東部と横浜・小田原は壊滅的な打撃を受け死者10万人以上、千葉県で1,373人、静岡県で450人、埼玉県で280人の死者を出した。
横須賀では重油タンクが爆発炎上、横浜港の大半は海中に没した。神奈川県西部の根府川で、大規模な山津波が発生し集落170棟が消失し、東海道線根府川駅に停車中の列車も飲み込まれて乗客112人が死亡。江戸300年の歴史を誇る日本橋魚河岸は、震災で壊滅したため、その後、現在の築地へと魚市場は移転を余儀なくされた。
地震による津波も発生し、静岡県熱海市で12m、千葉県相浜で9.3m、洲崎で8m、神奈川県三浦で6m。鎌倉市由比ケ浜では別荘や海水浴客に津波が押し寄せ300人余が行方不明となった。
地震後には、旧・東京市 (人口250万人) の約132ヶ所で一斉に出火、能登半島沖にはこの日、台風が停滞していた影響で、関東地方は折から風速10m/sの強風が吹きあれていたため、火は瞬く間に延焼し9月3日午後14時頃まで類焼し続けた結果、市内総戸数63万8千棟の内、約40万棟が全焼した。
警視庁など多くの中央官庁の本部や役所が火災により全焼。消防や被害への早期対応にあたる行政組織が壊滅的な被害を受けたことや、地震当日は土曜日で、当時の官公庁や企業の多くは正午に業務を終えていたことも被害拡大の一因となった。
本所区 (現・墨田区) の2万坪の空き地に約4万人が避難していたが、1日の夕刻に火災旋風(火の竜巻)が襲いほぼ全員が逃げる間もなく焼死。
火災のため、9月1日深夜の東京の気温は46度まで上昇するなど、更に5万人の命が一夜で失われた。
余りの混乱で社会不安が増大、「朝鮮人が放火」 「井戸に毒を投げ入れた」 など流言やデマが飛び交い朝鮮人が群集らに虐殺される痛ましい事件、韓国政府によると虐殺3000~6000人、北朝鮮では2万人虐殺と報道される。
当時の朝鮮総督府の調査では、関東大震災による朝鮮人死者・行方不明者総数は832人、うち司法省調査による朝鮮人虐殺者数は死亡233人、重傷15人、軽症27人、その他、朝鮮人と間違われて殺害された日本人58人、中国人3人とされている)や、亀戸事件や甘粕事件と呼ばれる労働運動や社会主義運動指導者の殺害事件も混乱に紛れて発生した。
関東大震災では火災ばかりがクローズアップされる傾向があるが、被災地域の広大さと、余震も特筆に価する。2003年の研究によると本震と続けて発生した 「三つ子地震」 の後にも、午前12時48分に東京湾を震源にM7.1、翌9月2日午前11時46分に千葉県津浦沖でM7.6、午後18時27分に九十九里沖でM7.1と、阪神淡路大震災と同規模のM7の地震が合計6回も発生したことが判明している。
東京の被害は、隅田川より東側が最も大きく揺れ、この地域の家屋倒壊率は20~30%近くに達している。特に隅田川から柳島一帯、本所の横綱から被服廠跡地、深川の大部分が最も被害が大きかった。
早稲田鶴巻町から江戸川沿いの地域、小石川砲兵工廠 (現在の小石川後楽園・東京ドーム) から神田三崎町、西小川町、大手町、丸の内までの一帯の家屋倒壊率も20~25%、また、新吉原から玉姫町、山谷町、吉野町、千束町の辺りも20~25%だった。これらの町の特徴は、本所深川の埋立地、小石川江戸川の灌江や平川の流れを填築 (埋め立て) したところに近く、下谷・浅草では姫池、千束池、姥池などの埋立地で比較的に地盤が弱い所でもあった。
逆に、いわゆる台地と言われる場所は、これらに比べ被害が少なかった。待乳山、元鳥越、八重洲口から銀座通り一帯などである。
当時の旧・東京市社会局の統計によると、焼失家屋戸数の総計は407,992戸で、地震発生前の家屋数が638,860戸だったことから実に東京市内の64%の家屋が火災により焼失したことになる。
また、罹災人口の総計は、1,505,029人で、これも地震前の人口2,437,503人に対し、65%の人が被害を受けた・・・とある。
東京市社会局の調査で死者約91,000人のうち、火災による死者が83% (約76,000人)、家屋倒壊などによる圧死者が12% (約11,000人)。
その他、行方不明者のうち火災によると思われる者が90%、圧死者が4%。火災による重傷者62%、倒壊による重傷者28%であった。

② 東京・新宿:歌舞伎町雑居ビル火災
歌舞伎町ビル火災は、2001年9月1日未明に東京都新宿区歌舞伎町にある雑居ビルで起きた火災。44人が死亡し、3人が負傷する被害を出した。
日本で発生した火災としては戦後 (第二次世界大戦後) 5番目の被害となった。
多くの死傷者を出した原因は、ビル内の避難通路の確保が不十分であったためとされる。
出火原因は放火とみられているが、現在でも未確定である (2022年7月時点)。
現住建造物等放火罪は 「人を死亡させた罪」 にはあたらず、2010年に行われた時効撤廃・延長の対象にはなっていないため、本件が現住建造物等放火罪のみが問われる事件とするならば2016年に公訴時効が成立したことになるが、殺人事件としては時効が撤廃されており、現在も警視庁捜査一課特命捜査対策室で捜査中。
居合わせた客と従業員のうち、3階の19名中16名、4階の28名全員の計44名が死亡、3階から脱出した3名が負傷した。
午前0時59分にビル4階のセクシーパブから119番通報がなされ、その後も含めて計4回通報があった。
出火地点はビル3階のゲーム麻雀店「一休」そばのエレベーター付近。
ビル3階と4階のセクシーパブ 「スーパールーズ」 の防火扉が開いていたため、この2フロアに火炎と特に煙の回りを早めたことが、被害を拡大させる一因となった。
44名全員が急性の一酸化炭素中毒で死亡したことが、それを表している。
この事件では、内部で既に火災が起こっていたところに従業員の1人が何も知らず扉を開けてしまい、空気が入ってきたためバックドラフトが引き起こされた。
この従業員は道路側の非常口からそのまま飛び降り、この救急要請の通報が第一報であった。
また、従業員2人は別の窓から屋根伝いに脱出した。
3階ゲーム麻雀店で助かった3名は、事務所の窓から脱出した従業員であり、従業員という立場でありながら避難誘導しなかった。
また、この際目撃証言から 「4人目」 の生存者がいたとされるが、この人物はその後行方をくらました。
自動火災報知設備は設置されていたが、誤作動が多いために電源が切られていた。
また、4階は天井を火災報知機ごと内装材で覆い隠してしまっていた。
避難器具は、3階には未設置で、4階には設置されていたものの実質的に使用できない状態であった。
この種の雑居ビル火災として、1973年5月28日に発生した第6ポールスタービル火災 (死者1名)がある。
現場が同じ歌舞伎町で、違法な内装、防火管理の不徹底などで東京消防庁から警告されていた点が類似する。
火災発生時、NHKが午前2時10分から臨時ニュースが報じられると共に、現場からの生中継が始まったが、通常番組に5分程度カットインする状態だった。
被害が明るみに出つつあった2時23分から 「NHKニュースおはよう日本」 開始まで特別報道体制(臨時ニュースによる終夜放送) となり、現地記者とヘリコプター空撮映像を交えながら現場の状況を繰り返し伝え、「NHKニュースおはよう日本」 では当火災の内容を中心に放送した。
民放は深夜ということもあり、警察や消防発表を拠り所とした事実経過を簡単に伝えるのみであったが、被害状況の詳細が伝わるにつれ (こちらもNHK同様に、被害の大きさが分かってきた午前3時台以降)、深夜番組を一部休止したりカットインするなどして、各社とも臨時ニュースを伝えた。
明けて土曜早朝の時間帯も、通常の生情報番組内で内容を変更して詳報を伝える局や、レギュラー番組を休止して報道特別番組を編成する局など対応は様々であった。
鎮火後のマスコミは、火災原因を放火であるのか事故であるのか不確定な部分を憶測を交えつつこぞって追求していたが、9日後の9月10日になると日本国内初の狂牛病が疑われる牛の確認公表や、翌9月11日夜 (JST) にはアメリカ同時多発テロ事件が発生したため、当火災の報道は激減し、「報道特集」 などのドキュメンタリー系報道番組で遺族の様子などを幾度か取り上げる程度に縮小した。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産