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エルヴィス・プレスリー 8.Jan.2025

1935年1月8日午前4時35分エルヴィス・プレスリーはミシシッピー州イースト・テュペロで生まれました。
わずか42年の生涯で、700曲にもわたる楽曲を、世に送りだしたエルヴィス。
今なお世界中のファンから愛され続けている彼は、ギネス記録に 「史上最も成功したソロ・アーティスト」 と認定されています。
ロックンロールの誕生と普及に貢献したのは言うまでもありませんが、数々のハリウッド映画にも出演し、歌手としてだけではなく、俳優としても活躍した彼の功績あってのことでしょう。
あなたはエルヴィスのパフォーマンスを見たことがあるでしょうか?
見ているものをくぎ付けにするその歌唱姿で、特に印象に残るのが身体の動きです。
激しく腰を揺らしながら歌うその姿は、観客を興奮の渦に包み、時に大きな称賛を浴び、また時には卑猥だとして非難も浴びました。
1958年1月、エルヴィスはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けます。
すでに圧倒的な人気を誇っていたエルヴィスでしたが、特例措置などはなく、普通の一兵士として2年間の兵役を負うことになったのです。
また、この兵役中には最愛の母グラディスの死に直面することとなります。
エルヴィスの最大の理解者であった母の死は彼を大きな悲しみに包みました。
そんな彼の音楽は、兵役前と後で大きく変わったと言われています。
兵役の経験が影響したのか、母親の死が原因なのか、真の理由は分かりませんが、ロックに限らずポップスやバラードも見事に歌い上げ、最終的には700曲にも渡る多彩なジャンルの楽曲を世に残しました。
その人気はアメリカ国内にとどまらず、全世界にまで広まっていたエルヴィス。
そんなアーティストならば、世界中を飛び回り、多くのファンにその歌唱姿を届けに行っているのでは!と思われがちですが、エルヴィスが国外で公演を行ったのは、カナダ1国のみ。
実は彼のマネージャーを勤めていたトム・パーカーはアメリカへの不法入国者だったのです。
国外に出ることで、マネージャーが再入国が出来なくなることを恐れ、海外公演は実現しませんでしたが、当時パスポートが必要なかったカナダにだけは入国できたとのこと。
絶大な人気を誇っていたエルヴィスが世界各地に渡り、その姿を見せていたら今よりさらに人気に火がついていたことでしょう。
多くのアーティストが憧れのアーティストとしてエルヴィスの名前を挙げますが、その代表的な存在としてよく知られているのがビートルズです。
そんなエルヴィスとビートルズですが、その生涯でたった一度だけ会談をしたことがあるのです。
それは、1965年8月27日のことで、ビートルズの4人は全米ツアーの真っ最中でした。
報道陣の介入を防ぐため、録音や録画、写真撮影は一切無しとの決まりで始まったその会談は、緊張感からか実に気まずい雰囲気であったといいます。
しかし、エルヴィスの呼びかけから、ビートルズの4人とセッションを始めると、先ほどまでの緊張感はどこへやら、とても良い雰囲気の会談になったそうです。
ロックの世界を牽引する両者の会談は、記録には残っていないものの、音楽史に残る歴史的なものでした。
1977年8月16日、テネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドの2階のバスルームで倒れているところを恋人に発見されたエルヴィス。
その後すぐに病院に搬送されるも、42歳という若さで息を引き取りました。
検視の結果、処方薬の極端な誤用による不整脈であると公式に発表され、この訃報が流れた当時、グレイスランドは数多くのファンが詰めかけ、騒動となりました。
しかし、彼の死因には様々な説が飛び交っています。
エルヴィスの死後、イギリスのテレビ番組ではスティーヴン・キングスモア博士が、本当の死因は遺伝性の病気で、DNAに原因があると説明しました。
その他にも甘いものを食べすぎたことによる肥満説や便秘説などを唱える人もいます。
果たして、本当の死因は何だったのでしょうか・・・?
世界的には1月8日がロックの日として認知されています。
それはエルヴィスとイングランド出身のロックミュージシャン、デヴィッド・ボウイが生まれた日だからです。
ロックミュージックで世界的に名声を得た2人の英雄の誕生日が同じとは、何か運命があるようにも感じますね。 ☆ (T.Koga)長崎市の三山不動産